ととの。総括

 カミサマ=ヒロインのイデアというのは、面白い。ヒロイン側の存在理由をなるべく多くのイベントCGを回収すること(できるだけ多くの男性キャラと性交すること)というものにし、その規範とそこから逸脱した感情との葛藤をうまく描いている。アオイのバグとしてプレイヤーとの恋愛感情を描くことで、エロゲプレイヤーのヒロインに対する暴力が明らかにされている。しかし、これは一周目からわかっていたことであり、むしろそこに物語上の正当な理由を与えて、「やさしいぼく」を癒す「レイプファンタジー」ではないか、という批判はありうる。

 ただ、ととの。の場合、システム上の工夫でその状態を上手く避けている。具体的にあげると、攻略ヒロイン以外のセーブデータが消える、美雪がアップデートした世界によるプレイヤー側へのコスト負荷、クリア後アンインストールしなければ自分が選択していない方のヒロインのエンディングを見ることができない、などである。これらは、カミサマというデータベースが作ったヒロインという複製可能な存在を「攻略」におえる既読スキップ、選択肢セーブといった反復を想定とした機能でもって消費するプレイヤーに、先に紹介したシステムで、アウラを与えることに成功している。

 ゲームのプレイヤーを巻き込むメタ・フィクションとしての物語は、オタク的なものの閉じたループ性の批判に向くこと多いが、ととの。は、プレイヤーが「アオイを忘却しない」という独特の倫理を説くことで、ひとつの物語としてうまくまとめられている。これは、今後のプレイヤーが行う他作品のヒロインへの暴力の肯定となる。ヒロインの存在論的問題として性交が必要とされてしまえば、もはやプレイヤーはその欲望を満たすだけで、究極的に「やさしいぼく」でありうる。しかし、ととの。の場合の「アオイを忘れない」とは、「美雪への暴力を忘れるな」ということでもある。正直に言って、プレイヤーがその後他の作品をプレイするときに自身の選択肢に責任を持つことは極めて稀だとは思う。ただ、ととの。という作品においては、複製可能な平面存在が機械的な消費体験をするエロゲ―という形式の中で、上手く一回性のアウラを体現できていた。

 また、この作品はエロの部分でもかなり優秀である。それは、アオイがメタ存在として性技についておもむろに語りだすシーンや、美雪が画面外のプレイヤーとの性交をその語りでもってシュミレートしながら、自慰行為に耽るところにある。スラヴォイ・ジジェクの「倒錯的映画ガイド」で紹介されていた「ペルソナ」という映画の解説を思い出せばよい。